生い立ちと出会い|ロングアイランドの空気が生んだストレイ・キャッツ
ブライアン・セッツァーは1959年、ニューヨーク州ロングアイランドで生まれた。いわゆる郊外の住宅地だが、当時のロングアイランドには若いミュージシャンが数多く集まり、ガレージバンド文化が色濃く残っていた。彼も例外ではない。10代の頃からドラムやトランペットを経験し、最終的にギターへとのめり込んでいく。最初から“ギタリスト一本”ではなかったことは重要だ。リズムとアンサンブルを身体で覚えていたからこそ、のちの豪快なリズムギターとビッグバンド志向へ自然につながっていく。
70年代後半、ニューヨークはパンク全盛期。だが彼が惹かれたのは1950年代のロックンロールとロカビリーだった。革ジャンにリーゼント、ホロウボディギター。すでに“古い”と見なされていたスタイルに本気で向き合う若者だった。
幼なじみなのか?──三人の本当の関係
リー・ロッカー、
スリム・ジム・ファントムもまたロングアイランド出身で、年齢も近い。同じ町、同じ時代の空気を吸って育った世代だ。
よく「幼なじみ」と語られることがあるが、厳密には毎日遊んでいた幼少期の親友というわけではない。正確に言えば、「同じローカル・ミュージックシーンで活動していた同世代の音楽仲間」に近い。
ロングアイランドのライブハウスやガレージシーンの中で顔を合わせ、音楽的に接点を持ち、やがて合流していった。特に決定的だったのがリー・ロッカーの存在だ。70年代後半、若い世代でウッドベースを本気で弾く人間はほとんどいなかった。セッツァーにとって、彼の姿は「探していたピース」だったと言える。
つまり三人は、血縁的な幼なじみではないが、音楽的に出会うべくして出会った同郷の仲間だった。
結成前夜|流行に背を向けた選択
1979年頃、本格的に三人で活動を開始する。後にストレイ・キャッツとなる原型だ。
当時アメリカではロカビリーはほぼ忘れ去られた音楽だった。ニューウェーブやパンクに寄せる選択肢もあったはずだが、彼らはそうしなかった。むしろ逆だ。「50年代を今やる」。これは懐古趣味ではなく、明確な意思だった。
この“逆張り”ともいえる姿勢こそ、ストレイ・キャッツの核である。流行に迎合しなかったからこそ、本気度が音に現れた。
ストレイ・キャッツの結成と成功
1979年、セッツァーは幼なじみのスリム・ジム・ファントムとリー・ロッカーと共に「ストレイ・キャッツ」(Stray Cats)を結成する。
ロンドン移住という賭け|デイヴ・エドモンズとの出会い
1979年、ニューヨークではロカビリーは“過去の音楽”だった。
ライブはできても、大きなムーブメントは起きない。手応えはあるのに、空気が噛み合わない。
そんなとき、イギリスでテディボーイ文化とロカビリー・リバイバルが再燃しているという記事を目にする。流行の中心はロンドン。
若い三人は考えた。
「なら、行ってしまおう。」
無名バンドが、コネも保証もなく海外に渡る。今考えても無謀だ。だがその決断こそが、ストレイ・キャッツを“世界的バンド”へ変える第一歩だった。
ロンドンに到着した彼らは、機材を抱えながら地道にライブを重ねる。驚くことに、現地の若者はすぐに反応した。革ジャン、リーゼント、ウッドベース。ロカビリーは“過去”ではなく、“クールな復古”として受け入れられたのだ。
そして決定的な出会いが訪れる。
デイヴ・エドモンズ。
彼はウェールズ出身のミュージシャンであり、プロデューサーとしても高い評価を得ていた存在。50年代ロックンロールへの深い理解を持つ人物だった。
ストレイ・キャッツのライブを観たエドモンズは、その本気度に反応する。懐古趣味ではない、ガチのロカビリー。しかも演奏は現代的でスピードもパワーもある。
彼のプロデュースによってレコーディングが進み、1981年にデビューアルバム『Stray Cats』を発表。ここから「Runaway Boys」「Rock This Town」などのヒットが生まれ、バンドは一気に注目を浴びる。
重要なのは、ロンドン移住が“流行への便乗”ではなかったことだ。
彼らは流行を追いかけたのではなく、自分たちが正しいと思う音楽を理解してくれる場所を探しただけだった。
アメリカで評価されなかったからこそ、イギリスへ。
そしてイギリスで成功したからこそ、逆輸入という形でアメリカを再び揺らす。
この大胆な一手がなければ、ブライアン・セッツァーは単なるローカル・ロカビリー青年で終わっていたかもしれない。
ロンドン移住は、逃げではなく攻め。
無謀ではなく確信。
そして何より、三人の“覚悟”が試された瞬間だった。
彼らのデビューアルバム「Stray Cats」(1981年)は英国で成功を収め、「Rock This Town」や「Stray Cat Strut」などのヒット曲を生み出した。
1982年、アメリカに戻ったストレイ・キャッツは、アルバム「Built For Speed」でついにアメリカでもブレイクし、MTVの台頭と共にその人気は急上昇した。
彼らは50年代のロカビリーサウンドを現代的にアレンジし、80年代初頭の音楽シーンに新鮮な風を吹き込んだのだ。
栄光の裏側で起きていたズレ|ストレイ・キャッツ解散の真相
1981年から83年にかけて、ストレイ・キャッツは怒涛の成功を収めた。「Rock This Town」「Stray Cat Strut」などがヒットし、イギリスだけでなくアメリカでも再評価が始まる。ロカビリーは一時的とはいえ、再びメインストリームに浮上した。
だが成功の裏で、三人の間には微妙な温度差が生まれていた。
中心人物はやはりブライアン・セッツァー。
彼はもともとチェット・アトキンス的なジャズ志向を持っていたし、音楽的な探究心も強い。ロカビリーという枠の中に“永遠にとどまる”タイプではなかった。
一方で、リー・ロッカーとスリム・ジム・ファントムは、ストレートなロカビリー・バンドとしての活動を軸にしていたと言われている。
決定的だったのは、音楽的方向性の違いとツアー疲労。
80年代前半のツアーは想像以上に過酷だった。
成功はしているが、常に移動、常にライブ。
若いとはいえ、精神的にも物理的にも消耗は蓄積する。
そしてもうひとつ。
ロカビリー・リバイバルは一過性のブームだった。
83年頃になると、音楽シーンはシンセポップやMTV主導のビジュアル時代へと急速に移行していく。バンドはピークを迎えた直後に、時代の風向きが変わり始めていた。
1984年、事実上の解散。
“喧嘩別れ”というより、方向性の分岐に近い。
セッツァーの次の一手|枠を壊す決断
解散後、セッツァーはソロ活動を開始。
よりロック色を強めたサウンドに挑戦し、のちにはビッグバンド路線へと進む。
ここが重要だ。
彼はロカビリーを否定したわけではない。
むしろロカビリーを土台に、ジャズ、スウィング、ロックを融合させていった。
ストレイ・キャッツの解散は終わりではなく、
セッツァーにとっては“拡張”の始まりだった。
ソロキャリアの模索|ロカビリーの殻を破ろうとした男
1984年、ストレイ・キャッツは事実上の解散。
中心人物だったブライアン・セッツァーはソロ活動へと舵を切る。
ここで誤解してはいけないのは、彼がロカビリーを捨てたわけではないということ。
むしろ「ロカビリーだけでは足りない」と感じ始めていた。
80年代のソロ作品では、よりハードロック寄りのサウンドに挑戦する。ギターは相変わらずグレッチだが、音作りは太く、歪みも強く、リズムも重い。MTV時代の影響を受けつつも、完全に流行へ迎合することはなかった。
正直に言えば、この時期の商業的成功はストレイ・キャッツ時代ほどではない。だがこの“迷いの時代”こそ重要だ。
なぜなら、ここで彼は自分のルーツを再確認する。
ロックンロールだけではない。
カントリーだけでもない。
本当に惹かれていたのは──スウィングとビッグバンドだった。
ブライアン・セッツァー・オーケストラ誕生|原点回帰ではなく進化
1990年代初頭、彼は大きな決断をする。
ホーンセクションを従えたビッグバンド編成での活動。
それが
ブライアン・セッツァー・オーケストラだ。
これは懐古趣味ではない。
50年代ロカビリーのさらに奥、30〜40年代のスウィングジャズへと遡った挑戦だった。
ギター一本で突っ走るのではなく、
ブラス、リズム隊、アレンジ、構成。
少年時代に触れていたビッグバンド音楽が、ここで完全に花開く。
1998年、『The Dirty Boogie』が大ヒット。
「Jump, Jive an’ Wail」がグラミー賞を受賞し、90年代後半に巻き起こったネオ・スウィング・ムーブメントの中心人物になる。
ここがすごい。
80年代にロカビリーを蘇らせ、
90年代にスウィングを復活させる。
二度も“時代を逆回転”させたギタリストは、ほぼ彼だけだ。
なぜ成功したのか
単純な理由はひとつ。
彼は様式だけを真似していない。
演奏が本物だった。
ロカビリー時代に鍛えたピッキングの攻撃性。
ジャズ的コード感覚。
ライブでのフロントマンとしての華。
ビッグバンドという大編成でも、彼のギターは埋もれない。
むしろ推進力になる。
ここでようやく、少年時代のドラムやトランペット経験が意味を持つ。
ギタリストでありながら、アンサンブル全体を設計できる視点を持っていた。
ストレイ・キャッツとの違い
ストレイ・キャッツは“衝動”。
ブライアン・セッツァー・オーケストラは“構築”。
前者がスピードと反骨なら、
後者は洗練と構造美。
だが両方に共通しているのは、
ルーツへの誠実さ。
ロカビリーもスウィングも、単なる懐メロではなく、
「今鳴らす意味」を提示した。
2000年代以降のキャリア
2000年代に入っても、セッツァーは精力的に活動を続けています。ブライアン・セッツァー・オーケストラでのクリスマスアルバムやツアーは毎年の恒例行事となりました。また、ストレイ・キャッツの再結成ツアーも何度か行われています。
2001年には「’68 Comeback Special」でエルヴィス・プレスリーへのオマージュを表現し、ロックンロールのルーツへの敬意を示しました。その後も「Rockabilly Riot!」シリーズなど、ロカビリーを中心とした作品を継続的にリリースしています。
音楽スタイルと影響
セッツァーのギタープレイは技術的に非常に高く、特に指弾きの技術は高く評価されています。彼の音楽スタイルはロカビリー、ジャズ、スウィング、ブルースなど多岐にわたるジャンルの影響を受けており、それらを独自の方法で融合させています。彼は特にエディ・コクランやスコッティ・ムーアなどの50年代のギタリストから大きな影響を受けています。
個人的生活
セッツァーは何度か結婚しており、現在はジュリー・リーブスと結婚しています。彼はカリフォルニア州南部に拠点を置いて活動しています。また、彼はヴィンテージカーや特にグレッチ・ギターのコレクターとしても知られています。実際、グレッチは彼の名を冠したシグネチャーモデルも複数発売しています。
ブライアンセッツァーの使用ギターについて
メインギター:グレッチ(Gretsch)
セッツァーは特にグレッチ・ギターとの関係で有名です。彼の代表的なギターは:
- グレッチ 6120 – 彼の最も象徴的な楽器です。オリジナルの1959年製オレンジカラーの「Nashville」モデルを長年使用しており、このギターはストレイ・キャッツ時代から彼のトレードマークとなっています。
- ブライアン・セッツァー・シグネチャーモデル – グレッチは彼と共同で複数のシグネチャーモデルを開発しています:
- グレッチ G6120SSU Brian Setzer Nashville
- グレッチ G6120SSL Brian Setzer Nashville
- グレッチ G6120DSV-BS Brian Setzer Nashville Hot Rod
- グレッチ G6120SSLVO Brian Setzer Nashville (Vintage Orange)
- グレッチ G6120T-BSSMK Brian Setzer Smoke
ピックアップとサウンド特性
セッツァーのグレッチ・ギターには通常、TV Jones社製のピックアップ(特にTV Jones Classic)が搭載されています。これらのピックアップは、オリジナルのフィルタートロン・ピックアップの音色を踏襲しながら、より鮮明でクリーンなサウンドを提供します。
その他の使用ギター
セッツァーはグレッチ以外にも様々なギターを使用しています:
- ギブソン・ギター:特に初期には、ギブソンのES-335やレスポール・カスタムなどを使用することもありました。
- フェンダー・テレキャスター:一部のレコーディングやライブでは、テレキャスターも使用しています。
- エピフォン・ブライアン・セッツァー・シグネチャー・モデル:若いミュージシャンやより予算を抑えたい人向けに、エピフォンからも彼のシグネチャーモデルが発売されています。
プレイスタイルとセットアップ
セッツァーはヘビーゲージの弦(通常.011-.050程度)を好み、ダンロップ・サムピックを使用したフィンガーピッキングでプレイする独特のスタイルを持っています。彼のギターセットアップは:
- ビグスビー・トレモロシステム(彼のトレードマークの一つ)
- 比較的低めのアクション
- フェンダーの真空管アンプ(特にツインリバーブやベースマン)、または時にヴォックスのAC30なども使用
コレクション
セッツァーは熱心なギターコレクターとしても知られ、特にヴィンテージのグレッチ・ギターの重要なコレクションを所有しています。彼のコレクションには50年代と60年代のグレッチ・モデルが多数含まれています。
音楽的遺産
ブライアン・セッツァーは、時代遅れと思われていたロカビリーやスウィングジャズを現代に蘇らせた功績で高く評価されています。彼の斬新なアプローチと比類ない演奏技術により、彼は単なるノスタルジアを超えて新世代にこれらの音楽を伝える役割を果たしました。
複数のグラミー賞受賞歴を持ち、ロカビリー・ホール・オブ・フェイムにも殿堂入りしている彼は、アメリカ音楽史における重要な革新者として認識されています。彼のキャリアは音楽的柔軟性、革新性、そして伝統への敬意のバランスを保つことの重要性を示しています。
