ブルースという音楽には、最初から「伝説」が貼りついている人物がいる。その代表格が、Robert Johnsonだ。
彼は数十年活動した大物でもなければ、膨大な作品を残した作曲家でもない。残された録音はわずか29曲、活動期間は実質数年、そして27歳で突然この世を去った。にもかかわらず、その名前は今なお、ブルースの核心として語られ続けている。
ロバート・ジョンソンを語ろうとすると、必ず「悪魔に魂を売った」という話が顔を出す。真夜中の十字路、ギターを抱えた青年、そして契約。あまりにも出来すぎた物語は、長い間、彼を“神話の中の人物”に閉じ込めてきた。だが実際のロバート・ジョンソンは、もっと現実的で、生々しく、そして人間くさい存在だった。
彼はミシシッピ・デルタを放浪し、酒場や路上でギターを弾き、生きるために音楽を鳴らした一人の黒人ミュージシャンだった。その演奏は当時の仲間たちを驚かせ、数十年後にはロック・ミュージシャンたちの価値観まで塗り替えていくことになる。ブルースからロックへとつながる“見えない橋”の起点に、確かに彼は立っていた。
この記事では、ロバート・ジョンソンを「伝説」として消費するのではなく、実在したミュージシャンとして丁寧に掘り下げていく。生い立ち、逸話、演奏スタイル、使用機材、録音の背景、映画で描かれた姿、同時代の音楽家との関係、そして彼が後世に与えた影響まで。
読み終えたとき、ロバート・ジョンソンは“謎の天才”ではなく、音楽史の中で確かな足跡を残した一人の表現者として見えてくるはずだ。
第1章|ロバート・ジョンソンとは何者だったのか
Robert Johnsonは、ブルース史の中でも特異な存在だ。名前はよく知られているのに、実像はほとんど掴めない。活動期間はごく短く、残された録音はわずか29曲前後。それでも彼は「ブルースの王」と呼ばれ、ロック誕生の源流として語り継がれている。
生年は1911年、没年は1938年。享年27歳。この数字だけを見ると、後年語られる“27クラブ”を連想する人も多いだろうが、当時はそんな概念すら存在していない。彼はただ、ミシシッピ・デルタという過酷な土地で生まれ、音楽で食い、短い生涯を終えた一人の黒人ミュージシャンだった。
ロバート・ジョンソンが特別視される最大の理由は、その音楽的完成度にある。録音技術も環境も劣悪だった1930年代に、彼は驚くほど立体的で、緊張感のある演奏を残している。低音で刻まれる安定したベースラインと、その上を自由に動く高音のフレーズ。さらにその上に、感情の揺れをそのまま写し取ったような歌が重なる。一人で演奏しているとは思えないほどの密度は、今聴いても異様な存在感を放つ。
一方で、彼は当時のスターでもなければ、広く名を知られた存在でもなかった。ラジオで流れることもほとんどなく、人気者だったという記録も乏しい。つまり、生前のロバート・ジョンソンは「伝説」ではなかった。評価が爆発的に高まったのは、彼の死後、さらに何十年も経ってからのことだ。
その評価の高まりには理由がある。1960年代以降、ブルースを掘り下げていった白人ロック・ミュージシャンたちが、次々に彼の存在に気づいたからだ。録音を聴いた彼らは、そこに「ロックの原型」を感じ取った。荒削りで、感情が剥き出しで、理屈よりも衝動が先に立つ音楽。その感覚は、時代を越えて共鳴した。
ロバート・ジョンソンは、偉大な成功者でも、時代の寵児でもない。だが、ブルースという音楽が持つ核心――孤独、渇望、諦め、そしてかすかな希望――を、これほど純度の高い形で音に刻み込んだ人物は多くない。だからこそ彼は、今もなお語られ続けている。
第2章|生い立ちと放浪の始まり(デルタ・ブルースの現実)
Robert Johnsonの物語は、まず「天才」や「伝説」という言葉を横に置いて始めたほうがいい。彼は特別な環境で育ったエリート音楽家ではなく、20世紀初頭のアメリカ南部、貧困と差別が日常だった土地で生まれ育った、ごく普通の黒人青年だった。
1911年、彼が生まれたのはアメリカ南部の農村地帯、いわゆるMississippi Deltaと呼ばれるエリアだ。綿花栽培を中心としたこの地域では、南北戦争後も事実上の身分制度が残り、黒人は低賃金労働と差別に縛られていた。学校教育を受ける機会は乏しく、将来の選択肢もほとんどない。音楽は娯楽であると同時に、現実から一瞬だけ逃げるための数少ない手段だった。
幼少期のロバート・ジョンソンについて残されている記録は驚くほど少ない。これは彼が無名だったからではなく、当時の黒人の生活そのものが「記録されない世界」に置かれていたからだ。戸籍も曖昧、写真もほとんど残らない。後世の研究者が苦労するのは当然で、彼の人生は最初から断片的にしか掴めない運命にあった。
少年期の彼は、母親とともに各地を転々としながら暮らしていたとされる。安定した家も仕事もなく、土地を移動しながら生きることは、この地域では珍しいことではなかった。だが、この「落ち着かない生活」こそが、後の放浪的な人生観につながっていく。
最初にロバート・ジョンソンが音楽に触れたきっかけは、ギターよりもハーモニカだったと言われている。安価で持ち運びやすく、誰でもすぐに音が出せる。だが彼が次第に惹かれていったのは、酒場や路上で鳴らされるギターだった。特に、年上のブルースマンたちが一人で空間を支配するように弾く姿は、強烈な印象を残したはずだ。
ただし、最初から才能を認められていたわけではない。若い頃のロバート・ジョンソンは、周囲から「演奏が下手だった」と証言されることも多い。リズムが安定せず、歌も弱く、ギターも雑だったという話は、神話とは真逆で興味深い。ここに、のちに語られる“突然の覚醒”の伏線がある。
彼はやがて、定住することをやめ、本格的に放浪の道を選ぶ。農場を転々とし、ジューク・ジョイントと呼ばれる酒場で演奏し、時には路上で投げ銭を受け取りながら生き延びた。放浪とは自由な生き方に聞こえるかもしれないが、実態は不安定で、危険と隣り合わせの生活だった。暴力、病気、酒、女関係。生きること自体が綱渡りで、その緊張感は彼の音楽にも色濃く反映されていく。
この時代のデルタ・ブルースは、楽譜に書かれ、教育を受けて継承される音楽ではない。すべては「現場」で覚える。誰かの演奏を盗み見し、盗み聴きし、身体で真似をする。間違っても誰も正してくれない。うまくなければ演奏の場は与えられず、下手なら容赦なく追い払われる。極端なまでに実力主義の世界だった。
ロバート・ジョンソンが放浪した理由のひとつは、この環境にあったと考えられる。一つの場所に留まれば、実力はすぐに見抜かれる。だが、場所を移動すれば、また別の聴衆、別の競争相手がいる。放浪は逃げでもあり、修行でもあった。そして彼は、この過酷な循環の中で、少しずつ、自分だけの演奏を作り上げていく。
この章で重要なのは、ロバート・ジョンソンを「孤独な放浪者」としてロマン化しすぎないことだ。彼の放浪は、時代と社会構造が生んだ現実的な選択だった。差別と貧困の中で、音楽だけを武器に生き延びるための、ほとんど唯一の方法。それが、デルタ・ブルースの現実だった。
第3章|突然の覚醒|“クロスロード伝説”はどこから来たのか
ロバート・ジョンソンの名を聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは「十字路で悪魔に魂を売った」という逸話だろう。真夜中、人里離れたクロスロード。ギターを抱えた青年の前に黒い影が現れ、楽器を調弦し、代わりに魂を持ち去った――あまりにも象徴的で、ブルースという音楽の妖しさを完璧に体現する物語だ。
この伝説は、彼の楽曲群と強く結びついている。とくに《Cross Road Blues》は、その核心だ。歌詞には、道に迷い、救いを求め、しかし誰にも助けてもらえない男の姿が描かれる。そこに「十字路」という舞台装置が加わり、物語は一気に神話の領域へと跳ね上がった。
だが、この話を事実として受け取る前に、ひとつ大事な前提を押さえておく必要がある。ロバート・ジョンソン自身が「悪魔と契約した」と語った記録は、どこにも存在しない。この逸話は、彼の死後、周囲の証言や後年の解釈が重なり合って形作られていったものだ。
それでも、この神話が生まれた背景には、はっきりとした理由がある。若い頃、彼の演奏は決して評判が良いものではなかった。周囲のミュージシャンたちは、「音は出しているが、音楽になっていない」と酷評することもあったという。ところが、しばらく姿を消した後、彼はまるで別人のような演奏を身につけて戻ってきた。テクニック、リズム、歌、すべてが飛躍的に向上していた。
この「空白期間」と「劇的な変化」が、神話の種になった。人は、説明できない変化に遭遇すると、物語を欲しがる。特に当時の南部黒人社会では、宗教的な世界観が生活と強く結びついていた。天からの祝福か、悪魔の取引か。そのどちらかで語るほうが、むしろ自然だったのだ。
ここから少しずつ、神話の外側へ出てみよう。実際のロバート・ジョンソンは、奇跡を起こした存在というより、極端なまでに努力した音楽家だった可能性が高い。彼は放浪生活の中で、優れたブルースマンたちの演奏を執拗に観察し、盗み、再構築していった。演奏の構造、チューニング、リズムの置き方。短期間で劇的に上達するための環境には、彼自身が身を投じていた。
さらに重要なのは、彼の演奏が「突然変異」ではなく、「集積」だったという点だ。ロバート・ジョンソンのプレイを分析すると、当時のデルタ・ブルースの語彙が随所に見える。まったく新しいものをゼロから生み出したのではなく、既存の要素を異常な精度で組み合わせた結果として、あの密度が生まれている。
では、なぜ悪魔なのか。ここで注目すべきなのは、ブルースという音楽がもともと宗教と緊張関係にあったことだ。教会音楽(ゴスペル)に対し、酒場で鳴らされるブルースは「悪魔の音楽」と見なされることも多かった。ギターが巧すぎること、女や酒を歌うこと、夜に演奏すること。それらすべてが、信仰的な価値観と衝突していた。
つまり、ロバート・ジョンソンの“悪魔伝説”は、個人の異常性というより、ブルースという音楽そのものが背負わされたイメージだったとも言える。彼はたまたま、その象徴として選ばれたにすぎない。
それでも、伝説が完全な作り話だと言い切るのも違う。神話は事実を歪めるが、同時に真実を別の形で保存する。ロバート・ジョンソンが短期間で信じがたいレベルに到達したこと、同時代のミュージシャンに強烈な印象を残したこと、そして説明不能な存在として記憶されたこと。それらは、紛れもない事実だ。
クロスロード伝説は、彼の才能を説明するための「言語」だった。悪魔という語彙を使わなければならないほど、彼の音は当時の常識から逸脱していた。神話は虚構だが、その虚構が必要とされた現実が、確かに存在していた。
第4章|演奏スタイルの異常性|一人で二人分鳴らすギター
ロバート・ジョンソンの演奏を初めて聴いた人が、まず感じる違和感がある。それは「人が足りない」という感覚だ。歌があり、ベースがあり、装飾的なフレーズがあり、間を埋めるリズムがある。普通なら最低でも二人、下手をすれば三人分の役割を、一人でこなしているように聴こえる。
だが、これは録音のトリックでも、多重録音でもない。1930年代の簡素な録音環境で、ロバート・ジョンソンは文字通り一人で弾き、歌っていた。しかも驚くべきことに、それが不自然に聴こえない。音は常に前に進み、間延びせず、緊張感を保ち続ける。ここに、彼が“伝説”と呼ばれる最初の理由がある。
初心者が聴いても感じるのは、「忙しさ」ではなく「充実感」だ。ベース音は一定の脈拍を刻み、高音はそれとは別の意志で動き、歌はさらに別の時間軸で漂う。例えるなら、足で歩きながら、手で違うリズムを叩き、同時に会話しているようなものだ。それを無理なくやってのけている。
ここから少し踏み込んで、構造の話をしよう。ロバート・ジョンソンのギターは、伴奏というより「編曲」に近い。低音弦でベースラインを作り、中音域でコードの骨格を支え、高音弦で装飾的なフレーズを入れる。この三層構造が、ほとんど崩れない。しかも、それぞれが独立して動いている。
この独立性が異常だ。多くのブルースギタリストは、歌っている間はギターが簡略化される。ところがロバート・ジョンソンの場合、歌が入ってもギターは手を抜かない。むしろ、歌とギターが微妙にズレながら進行することで、独特の緊張感が生まれる。これは意図的で、なおかつ高度なコントロールが必要になる。
チューニングの選択も重要だ。彼はオープンGやオープンDといった開放弦チューニングを多用していたとされる。これによって、左手の負担を減らしながら、右手で複雑なリズムを作ることができる。単に「弾きやすいから」ではなく、演奏全体を成立させるための合理的な選択だった。
さらに注目すべきは、リズムの揺れだ。ロバート・ジョンソンの演奏は、メトロノーム的に正確ではない。わずかに前に突っ込んだり、後ろに溜めたりする。そのズレが、歌の感情と完全にリンクしている。感情が高ぶればリズムが前に出るし、迷いや不安を歌うときは、音が沈む。この「感情とリズムの同期」は、後のロックにも直接つながっていく。
ギター経験者の視点で見ると、彼の演奏がいかに厄介かわかる。フレーズ単体ならコピーできる。だが、歌を入れた瞬間に破綻する。なぜなら、ギターと歌が完全に別のリズムで動いているからだ。多くの現代ギタリストが「コピーはできても再現はできない」と感じる理由が、ここにある。
実際、後年のミュージシャンたちも、ロバート・ジョンソンの凄さを「速さ」や「派手さ」では語らない。むしろ、構造の完成度、演奏の独立性、音楽としての成立度を挙げる。派手な技巧よりも、「一人で完結している」という事実のほうが、圧倒的に重い。
重要なのは、これが天才的ひらめきだけで生まれたものではないという点だ。この演奏スタイルは、放浪生活の中で磨かれた結果でもある。一人で演奏し、聴衆を引きつけ、最後まで飽きさせない。そのために必要だったのが、この密度と緊張感だった。
つまり、ロバート・ジョンソンの演奏は「難しいから凄い」のではない。「一人で生き残るために最適化された音楽」だった。その結果として、後世のミュージシャンが追いつけない完成度に到達してしまった。
第5章|使用機材|ロバート・ジョンソンは何を弾いていたのか
ロバート・ジョンソンの音について語られるとき、必ず出てくるのが「どんなギターを使っていたのか」という話題だ。あの独特な鳴り、鋭くもあり、乾いてもいる音色は、特別な楽器から生まれたものなのか。それとも、別の要因が支配的だったのか。この章では、まず“語られてきた機材像”を整理し、そのうえで神話を一枚ずつ剥がしていく。
よく語られるギター像と、その限界
写真資料や証言から推測される範囲で言えば、彼が使用していたのは小ぶりなアコースティックギターだった可能性が高い。高級な楽器ではなく、当時としては比較的手に入りやすい量産モデル。現在よく名前が挙がるブランドや型番はあるが、決定的な証拠はなく、あくまで推定に過ぎない。
ここで重要なのは、「どのモデルか」よりも「どんな条件の楽器か」だ。スケールは短め、ボディはコンパクト、低音は太すぎず、反応が速い。こうした特徴は、彼の演奏スタイルと相性が良い。一人でベースラインとメロディを同時に操るためには、反応の遅い大きなギターより、即座に音が立ち上がる楽器のほうが都合がいい。
弦についても、現代的な視点で語られがちだが、当時は現在ほど種類が多くない。ゲージも太めで、張力も強い。結果として、音は自然と硬く、粒立ちの良いものになる。この物理的な条件だけでも、現代のアコースティックギターとはかなり印象が違う。
チューニングが音楽を決めていた
ロバート・ジョンソンの音を語るうえで、チューニングの話は欠かせない。オープンG、オープンDといった開放弦チューニングは、単なるブルースの定番ではなく、彼の演奏構造を成立させる土台だった。開放弦によって、左手はコードを「押さえる」のではなく、「配置する」感覚に近づく。
その結果、右手の自由度が極端に高まる。ベース、和音、装飾音を同時にコントロールできるのは、この合理的な選択があってこそだ。つまり、音の密度は技巧だけで生まれているのではなく、構造的に仕組まれている。
しかし、音の正体は機材ではない
ここからが、神話の解体になる。
結論から言えば、ロバート・ジョンソンの音の決定打は「機材」ではない。なぜなら、同じ条件のギターを使っても、誰も同じ音にはならないからだ。
彼の録音は、現在の基準で見れば極端に制限された環境で行われている。マイクは一本、部屋は簡素、音響調整も最低限。低音は削られ、高音は歪みやすい。にもかかわらず、演奏の立体感は失われていない。ここに、機材論では説明できない要素が現れる。
最大の要因は、弾き方そのものが音を作っている点だ。右手のアタックは非常に明確で、音の始点がはっきりしている。強く弾くのではなく、「正確に当てる」。その積み重ねが、録音を通しても埋もれない輪郭を生む。
さらに、彼はギターを「鳴らす」というより「語らせている」。低音は歩くように進み、高音は応答するように入り、歌と完全に呼応する。この対話性は、どんな高級ギターを使っても簡単に再現できるものではない。
録音というフィルターを理解する
もうひとつ重要なのは、我々が聴いている音は「生音」ではなく「録音された音」だという事実だ。1930年代の録音は、現代で言えば強烈なフィルターを通した音に近い。低域が削られ、中域が強調される。この特性が、ロバート・ジョンソンのフレーズをより鋭く、切実に聴かせている。
つまり、我々が「彼の音」と感じているものは、
演奏 × チューニング × 録音環境
この三つが重なった結果なのだ。ギター単体を追いかけても、核心には辿り着けない。
機材神話の落とし穴
現代のギタリストは、どうしても「同じモデルを使えば近づける」と考えがちだ。だがロバート・ジョンソンの場合、それは本質を見誤る。彼の音楽は、機材を選ぶ前に、生き方と環境によって形作られている。一人で演奏し、一人で観客を掴み、一人で生き延びる。その必要性が、最適化された演奏と音を生んだ。
機材は重要だが、主役ではない。主役は常に、両手と身体、そして音楽そのものだった。
第6章|録音セッションの真実|わずか29曲が残した衝撃
ロバート・ジョンソンが後世に残した録音は、一般に29曲前後とされている。アルバム1枚分にも満たないこの数が、ブルース史、ひいてはロック史に与えた影響を考えると、その少なさ自体が異様だ。だが、もっと異様なのは「どのような環境で、どんな意識で録られた音なのか」を知ったときに見えてくる。
1936年と1937年、ロバート・ジョンソンは二度にわたって録音セッションに臨んでいる。場所はテキサス州のSan AntonioとDallas。どちらも本格的なスタジオとは言い難く、即席で設えられた簡素な録音環境だった。
想像してほしい。防音されたブースもなければ、複数マイクもない。彼の前にあるのは、一本のマイクと椅子、そしてギターだけ。ミスをしても何度もやり直せる保証はない。録音は“作品づくり”というより、“その場の演奏を残す行為”に近かった。
この緊張感は、録音された音そのものに刻み込まれている。ロバート・ジョンソンの演奏には、どこか張り詰めた空気が漂う。余裕や遊びというより、「この一瞬にすべてを置く」という集中力だ。後世のリスナーが感じる異様なリアリティは、この環境が生み出したものでもある。
ここから少し、冷静な視点に切り替えよう。
彼が残した29曲は、バリエーションが少ないどころか、驚くほど整理されている。12小節ブルースを基盤としながら、曲ごとに感情の角度が明確に違う。単なる即興の寄せ集めではなく、「使い分けられた表現」がそこにある。
たとえば《Terraplane Blues》では、車の部品を女性に喩える比喩が使われ、どこか軽妙で都会的な色気が漂う。一方、《Hellhound on My Trail》では、追い立てられる不安と恐怖が、スライドギターと声の震えにそのまま表れている。同じ人物が、同じ楽器で演奏しているとは思えないほど、心理のレンジが広い。
ここで重要なのは、ロバート・ジョンソンが「録音用に人格を切り替えている」点だ。路上や酒場での演奏と、録音で残す音楽は、目的が違う。録音では、一曲が短く、メッセージが明確で、聴き手に届きやすい構造になっている。これは偶然ではない。彼は、自分の音楽が“商品として流通する”ことを理解していた。
ただし、その理解は現代的なプロデュース感覚とは異なる。細部を磨き上げ、完璧なテイクを目指すというより、「今の自分が出せる最も濃い状態」を封じ込める感覚に近い。結果として、テイクごとの差異や揺れが残り、それがむしろ生々しさを強めている。
録音数が少ない理由についても、誤解が多い。才能がなかったからでも、評価されなかったからでもない。当時、黒人ブルースマンが録音できる機会そのものが極端に限られていた。録音は特権であり、偶然であり、常設のものではなかった。だから29曲という数字は、「少ない」のではなく、「奇跡的に残った数」と言うべきかもしれない。
また、録音が二回に分かれている点も見逃せない。1936年と1937年の間で、彼の演奏や歌には微妙な変化が見られる。後期録音のほうが、声は落ち着き、ギターはよりタイトになる。放浪の経験が積み重なり、音楽が研ぎ澄まされていく過程が、わずかな録音からでも読み取れる。
この29曲が、なぜこれほど強い影響力を持ったのか。理由のひとつは、「未完成感」にある。もし彼が大量の録音を残していたら、その中には平凡な演奏も埋もれていただろう。だが、残されたのは濃度の高い断片だけだ。聴き手はそこに余白を見出し、想像を膨らませる。その余白こそが、神話化を加速させた。
ロバート・ジョンソンの録音は、過去の遺物ではない。極限状態で鳴らされた音が、偶然にも未来へ届いてしまった記録だ。その偶然が、ブルースとロックの歴史を歪め、前に押し出した。
第7章|他のミュージシャンとの関係|孤独だったのか?
ロバート・ジョンソンは、よく「孤高のブルースマン」と表現される。だが実際には、彼が完全に一人で音楽を作っていたわけではない。むしろ彼は、同時代のブルースマンたちの只中に身を置きながら、どこにも定着しなかった存在だった。その微妙な距離感こそが、彼を特別な位置に押し上げた。
まず名前が挙がるのが、デルタ・ブルースを語るうえで欠かせないSon Houseだ。彼はロバート・ジョンソンより年上で、当時すでに名の通ったブルースマンだった。後年の証言によれば、若い頃のロバート・ジョンソンはサン・ハウスの演奏を熱心に聴き、その周囲をうろつく“見習い”のような立場だったという。
だが、その評価は決して好意的なものではなかった。サン・ハウスは、若いロバート・ジョンソンの演奏を「ひどかった」と率直に語っている。リズムも甘く、歌も弱い。ブルースの厳しい世界では、これは致命的だ。重要なのは、彼が甘やかされる存在ではなかったという点だ。実力がなければ、容赦なく切り捨てられる。
それからしばらくして、ロバート・ジョンソンは姿を消す。そして再び現れたとき、周囲の評価は一変する。サン・ハウス自身も、その変化に驚いた一人だった。ここで重要なのは、「弟子入りして教えを受けた」という単純な師弟関係ではないことだ。彼は誰かの正式な弟子になったわけではなく、あくまで横で見て盗み、勝手に吸収し、勝手に進化した存在だった。
同時代で、もう一人欠かせないのがCharley Pattonだ。デルタ・ブルースの“型”を作ったとも言われる人物で、その影響力は計り知れない。ロバート・ジョンソンが直接深く関わった記録は多くないが、音楽的語彙の多くがこの系譜に連なっているのは明らかだ。
ただし、ロバート・ジョンソンはチャーリー・パットンの模倣者ではない。彼はその語彙を使いながら、より内省的で、個人的な表現へと変換している。パットンのブルースが「場を支配する音楽」だとすれば、ロバート・ジョンソンのブルースは「一人の心の中を覗き込む音楽」だ。この差異が、同時代では異質に映った。
注目すべきなのは、ロバート・ジョンソンが固定の仲間やバンドを持たなかったことだ。セッション記録もほとんどなく、「誰かと組んで活動していた」という話も少ない。これは孤独だったというより、彼自身がそれを選ばなかった可能性が高い。一人で完結する演奏スタイルは、誰かと合わせる必要性を減らしていた。
また、デルタ・ブルースの世界では、共同体意識と同時に激しい競争も存在した。酒場の演奏枠は限られ、聴衆の注意を引けなければ生き残れない。そんな中で、ロバート・ジョンソンは「どこかに属する」より、「常に移動する」ことで自分の立場を保っていた。近づきすぎれば比較され、遠ざかりすぎれば忘れられる。その間を、彼は巧みに漂っていた。
さらに重要なのは、彼が「伝統の継承者」として振る舞わなかったことだ。当時のブルースマンの多くは、自分のスタイルを次世代に残そうとは考えていなかった。だがロバート・ジョンソンは、その中でも特に、誰かに教える側に回った形跡がない。彼の音楽は、共有されるためではなく、生き延びるために使われた道具だった。
結果として、彼は同時代の中では浮いた存在になった。完全なアウトサイダーではないが、中心人物でもない。その中間にいたことが、後世から見ると「孤高」に見える。しかしそれは、孤独というより、時代の中で居場所を固定しなかった音楽家だったというほうが近い。
第8章|死の謎|27歳で何が起きたのか
ロバート・ジョンソンの人生は、あまりにも突然、そして曖昧なかたちで終わる。1938年、彼は27歳で死亡した。場所も状況も、はっきりとした公式記録は残されていない。この「よくわからない死」が、彼をさらに神話的な存在へ押し上げたのは間違いない。
後年、彼の死はしばしば「伝説の完成」として語られる。天才、放浪者、悪魔との契約、若すぎる死。物語としては、あまりにも整いすぎている。だが、その整い方こそが、現実を覆い隠してきた。
まず、よく語られる説から整理しよう。
もっとも広く知られているのは「毒殺説」だ。ある酒場で、既婚女性と関係を持ったロバート・ジョンソンが、怒った夫によって毒を盛られたという話。この説は具体的で、生々しく、ブルース的な悲劇性に満ちている。そのため長く語り継がれてきた。
一方で、病死説もある。梅毒や肺炎、あるいは当時の南部で蔓延していた病気による衰弱死という見方だ。医療環境が劣悪だった時代、若くして命を落とすこと自体は珍しくなかった。だが、こちらの説はドラマ性に欠けるため、あまり好まれてこなかった。
ここまで聞くと、「結局どれが本当なのか」と思うかもしれない。だが、重要なのは結論そのものではない。なぜ、結論が出せないのかという点だ。
ロバート・ジョンソンの死が謎として残った最大の理由は、彼が“記録される存在”ではなかったからだ。当時の黒人ミュージシャンの死は、新聞に大きく載ることもなく、公的な記録も簡素だった。死亡診断書すら曖昧で、墓の場所すら確定していない。これは彼だけの問題ではなく、時代と社会の問題でもある。
さらに、彼の人間関係も謎を深めた。定住地を持たず、固定の家族や仲間も少なかったため、最期を看取った人物がはっきりしない。証言は断片的で、後年になって語られたものが多い。そのため、どの話も「もっともらしいが決定打に欠ける」状態のまま残っている。
ここで視点を少し変えよう。
もしロバート・ジョンソンが長生きし、安定した活動歴を残していたら、その死はこれほど語られただろうか。おそらく、答えは否だ。彼の死が特別視されるのは、その人生がすでに“物語化”されていたからだ。
生前、彼は成功者ではなかった。スターでもなかった。だが死後、録音が再評価され、影響力が明らかになるにつれて、「なぜこんな人物がこんな終わり方をしたのか」という疑問が膨らんでいった。その空白を埋めるために、人は物語を作る。毒殺、呪い、悪魔との契約。どれも、説明不能な価値を説明するための言語だった。
27歳という年齢も、後年になって特別な意味を与えられた。ロバート・ジョンソンが生きていた時代、27歳は「若すぎる死」ではあっても、象徴的な数字ではない。その象徴性は、のちに彼の影響を受けたミュージシャンたちの死と重ね合わされ、遡って付与されたものだ。
つまり、彼の死は「謎」なのではなく、「謎にせざるを得なかった」と言ったほうが正確かもしれない。記録されなかった人生、過剰な再評価、そして語り継ぐ側の欲望。それらが重なり合い、ひとつの死が神話へと変質していった。
ロバート・ジョンソンは、悲劇的に死んだから伝説になったのではない。伝説になるだけの音楽を残してしまったために、その死までもが物語として消費されることになった。その順番を取り違えてはいけない。
第9章|映画・ドキュメンタリーで描かれたロバート・ジョンソン
― 史料は何を伝え、何を伝えられなかったのか
ロバート・ジョンソンの名声は、音楽そのものだけで広がったわけではない。むしろ、多くの人が彼を知ったきっかけは、後年に作られた映画やドキュメンタリーだった。だが、映像作品は事実を残す装置であると同時に、物語を選別し、強調し、時に歪める装置でもある。
まず押さえておきたいのは、劇映画とドキュメンタリーは役割が違う、という当たり前だが重要な前提だ。たとえばCrossroadsは、ロバート・ジョンソン本人を描く作品ではない。あくまで「クロスロード神話」をモチーフに、ブルースとロックの精神性を物語化したフィクションだ。この作品は多くの若い音楽ファンをブルースへ導いた一方で、神話的イメージを決定的なものにもした。
一方、史料としての重みを持つのがドキュメンタリー作品だ。代表的なものとして挙げられるのが、The Search for Robert Johnsonである。この作品は、ロバート・ジョンソンの生涯を追うというより、「彼について何がわかっていて、何がわかっていないのか」を可視化した点で価値が高い。
このドキュメンタリーが優れているのは、証言の扱い方だ。生前の彼を知る人物たちの話を丹念に集めているが、それらを一つの真実としてまとめ上げてはいない。証言同士が食い違う場面や、記憶の曖昧さもそのまま提示される。つまり、史料の不完全さそのものを記録している。
だが、ここに限界もある。証言者たちが語るのは、何十年も前の記憶だ。ロバート・ジョンソンが無名だった時代の記憶が、再評価された後のイメージと混ざり合っている可能性は否定できない。人は、後から意味づけされた物語に、自分の記憶を寄せてしまうものだからだ。
さらに、ドキュメンタリーが扱える範囲には構造的な制約がある。ロバート・ジョンソン自身の言葉は、ほとんど残っていない。日記も手紙もない。音楽だけが存在し、本人の内面は沈黙している。結果として、語られるロバート・ジョンソン像は、どうしても「周囲が見た彼」「後世が欲した彼」にならざるを得ない。
ここで重要なのは、ドキュメンタリーを「真実の最終形」として見るのではなく、史料の束のひとつとして扱う視点だ。映像は臨場感を持ち、説得力があるぶん、観る側は無意識に信じやすくなる。だが、その説得力は、必ずしも事実の量と比例しない。
それでも、これらのドキュメンタリーが果たした役割は大きい。散逸しかけていた証言を集め、音源と結びつけ、「ロバート・ジョンソンは確かに存在した人物だった」という輪郭を与えた。その一方で、解明できなかった部分、矛盾したまま残された部分も、そのまま未来へ渡した。これは欠点ではなく、むしろ誠実な態度だと言える。
映像作品を通して見えてくるのは、ロバート・ジョンソンという人物そのものよりも、「彼を理解しようとしてきた人々の歴史」だ。神話を信じたい者、解体したい者、音楽だけを残しておきたい者。そのすべてが交錯し、彼の像は今も固定されない。
この不確かさこそが、ロバート・ジョンソンを現代に引き寄せている。完全に解明された人物ではなく、今なお問いを投げかけてくる存在。ドキュメンタリーは、その問いを整理するための地図であり、答えそのものではない。
第10章|彼が与えた影響|ギタリストたちは何を受け取ったのか
ロバート・ジョンソンが与えた影響は、「ブルースが好きになった」といった情緒的なものでは終わらない。
彼の音楽に真正面から向き合ったギタリストたちは、演奏技術だけでなく、ギターという楽器の捉え方そのものを変えられていった。
まず押さえておくべきなのは、ロバート・ジョンソンが「速い」「派手」「難解」なギタリストだったわけではない、という点だ。彼の影響は、指の動きよりも、一人で音楽を成立させるという発想にあった。
この思想を最も明確に言語化した一人が、エリッククラプトン、Eric Claptonだ。クラプトンは若い頃、ロバート・ジョンソンの録音を聴いて衝撃を受けたと語っているが、その理由は「速弾き」でも「斬新なコード」でもない。
ギターが、歌と同等の存在として語っていることに気づいたからだ。
ロバート・ジョンソンの演奏では、ギターは伴奏ではない。歌が始まる前から状況を説明し、歌の合間で感情を補足し、時には歌より先に答えを出す。クラプトンが後年ブルースを「対話」として捉え、歌とギターが呼応するスタイルを追求していった背景には、この感覚がある。
次に触れたいのが、Keith Richardsだ。リチャーズがロバート・ジョンソンから受け取ったのは、技巧よりも「鳴らし続ける感覚」だった。
ストーンズのリズムギターは、決して派手ではないが、止まらない。ベースとドラムの間に深く食い込み、曲全体を前に押し出す。その感覚は、デルタ・ブルース特有の反復性と直結している。
リチャーズは、ブルースを「進行」ではなく「グルーヴ」として受け取った。その源流にあるのが、ロバート・ジョンソンの低音の歩き方だ。一定だが機械的ではなく、感情に応じて前後する。この“揺れた土台”が、ロックの推進力へと変換された。
もう一人、直接的なギターテクニック以上に、意識の部分で影響を受けた存在として、Bob Dylanを挙げるべきだろう。ディランはギタリストというより表現者だが、ロバート・ジョンソンから「音楽に説明責任はない」という態度を学んだ。
ロバート・ジョンソンの歌詞は、必ずしも整合的ではない。比喩は唐突で、物語は途中で断ち切られる。それでも、感情は確実に伝わる。この「意味より先に感触が来る」表現は、ディランが後にフォークやロックの文法を壊していく際の強力な支えになった。
ギタリスト視点で見たとき、ロバート・ジョンソンの最大の遺産は、「一人で完結していい」という思想だ。バンドがいなくても成立する音楽。装飾がなくても成立する表現。ギター一本で、場の空気と時間を支配できるという事実。これは、多くのロック・ギタリストにとって解放だった。
さらに重要なのは、彼が「教科書」にならなかったことだ。ロバート・ジョンソンの演奏は分析できるが、再現しきれない。だからこそ、後世のギタリストたちはコピーではなく、翻訳を選んだ。彼の何を引き継ぎ、何を捨てるか。その選択が、それぞれの個性になった。
結果として、ロバート・ジョンソンは「ジャンルの始祖」ではなく、「思考の起点」になった。ブルース、ロック、フォーク、そのどれにも完全には属さず、しかしすべてに血を通わせた存在。ギタリストたちは彼の音をなぞるのではなく、彼が立っていた場所に立とうとしたのだ。

